2004年
大学生活の4年目は一足先に卒業した中島を除いた
僕と直江が学内に残る大学生活最後の1年となった
僕ら二人は
卒業の際に中島から
自分のことを気にせずに残りの一年も自由に音楽活動をしてほしい
と伝えられていた
大学入学以来
絶え間なくライブを行っていたことから僕は
大学生活最後の1年もサークルの仲間や後輩のサポートとして
ライブに出演していこうと直江に提案を持ち掛けたのだが
直江の答えは
今後も今まで同様Red Colored Gun以外の音楽活動は一切考えていない
というものであった
彼は今まで築いてきたスタイルを変えてまでライブに出演することに意味はなく
今後もRed Colored Gunとしての楽曲制作を続行するべきだと強く主張してきたのだ
この言葉を受けて
僕らの大学生活最後の1年は入学以来初めてライブ出演のない1年となった
当時
社会人1年目の中島と卒業を控えた僕ら二人にはライブ活動再開の見込みは
全くなかった
だが卒業後必ずまたバンドが再結集し
ライブ活動を再開する日が来ると信じて
直江と2人でのセッションの続行を決めることとなった
そうして新たに始まった2人のセッションでは
ライブ出演を前提としなくなったことから
今までのセッションとは全く別の価値観が生まれていった
年間に5本程度あるライブに向け
今までの僕らはより多くの楽曲を作ることを最優先の課題としてセッションを
行ってきたが
楽曲制作の期限がなくなったことから1曲に向き合う時間が以前より長くなり
楽曲の構成や展開を再検討し楽曲の完成度をさらに高めようという意識が強まっていったのだ
またこの頃から
直江のドラミングに対する価値観も徐々に変化していった
今までどちらかと言えばフィルインのフレーズを重視して
楽曲を組み立てていた直江だったが
より楽曲を深く理解し
楽曲の骨組みとなるグルーブを緻密に組み立てるスタイルへと変化していったのだ
この変化はバンドとしても歓迎すべきものであった
楽曲を客観的な視点でとらえ表現すべきポイントを絞り込むことは
バンドから生まれる楽曲をより多彩にし
結果としてバンドの可能性を広げることへとつながっていったのだ
在学中
学内のライブや八王子Rips
クラブチッタ川崎などのライブハウスに出演していた
僕らだったが
この時期に生まれた楽曲を携え数年後
渋谷チェルシーホテル
渋谷ギルティ
赤坂天竺
六本木クラブエッジ
三軒茶屋ヘブンズドアといった
都内のライブハウスへと活動の拠点を移していくこととなる
大学生活の最後の1年はライブ出演こそなかったものの
多くの時間をかけ再度自分たちのスタイルを見つめなおす1年となった
そのことからバンドの価値観も大きく変化することとなり
バンドの存続への意識もより高まっていった
大学生活の最後の1年は
のちの活動につながるターニングポイントとなる大切な1年となった